古代山陽道の赤磐のルートについて


赤磐市は、備前国分寺を有する備前国の中心であったので、都と大宰府、吉備大宰を結ぶ大路であった。
中世以降、山陽道は、南ルートに移って、赤磐市を通過することがなかったが、奈良時代、平安時代前半には、大きく栄えていた。

次の絵図は、赤磐市熊山地区(旧熊山町)の江戸初期の絵図である。そこには、和気から赤磐市馬屋にいたる街道が赤く描かれている。
記号:※T2-75
標題:備前国岩生郡絵図]
旧題:岩生郡図
年代:寛文1年5月18日


赤磐市熊山地区(旧熊山町)


次に、赤磐市山陽地区の江戸初期の絵図であるが、同様に当時の道が描かれている。



記号:※T2-76
標題:赤坂郡絵図
旧題:赤坂郡絵図
年代:未詳

赤磐市山陽地区内山陽道について

岡山から周匝に向かうメイン道路が太く、馬屋から下市を経由して可真に向かう細い線がある。

山陽道を考慮する上での要点:
@従来多くの説では、可真から正崎を経由して山陽団地手前で「岡山ー周匝」の道路に合流する経路
 を山陽道としているが、江戸初期にはその経路が道路になって示されていない。
 また、途中の道路の標高が低く(8.6M)、過去には湿地、池であった可能性がある場所もある。

A下市のあたりは、ぬかるみで、通行できないような記述がある(赤磐郡誌)が、江戸初期には、通行していた。

B備前国分寺の背面を通過する山陽道は、不自然で、正面を通過していたはずである。


このことから、以下の経路(ルート1)を候補として考えるべきである。







このルートが古代山陽道となると、赤磐市河本において、備前国府があった説を唱える方がおられるようで、
高月駅家、備前国分寺、両宮山古墳から東側について、備前国府の可能性を否定できない。

赤磐市河本には、ごらんのように河本を中心とした6区画×6区画の国府域となり得る区画もあり、山際には
奈良時代の遺跡が発掘されている。
(備前国赤坂郡東高月 門前池西方遺跡資料集)

古代山陽道の駅家の成立について           珂磨駅家(赤磐市松木)
門前池西方遺跡資料集 野磨駅家(兵庫上郡町)


戻る     吉備の国探訪


作成者 藤本典夫