古代山陽道駅家の成立について


                                           藤本典夫作成
                                           



(1) 播磨の国から備後までの駅家について

<1>駅馬と伝馬

   大化二年(646年)の詔勅に「初めて京師を修め、畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)とあって、大化の改新に際して、政治・軍事と共に交通制度の全国的整備がなされたことが知られる。

この時代の年表


645年 大化改新

663年 韓国の白村江(「ハクソンコウ」又は「はくすきのえ」)で、日本と百済が、新羅と唐の連合軍に大敗した。
663年 日本に亡命した百済人によって、九州に防衛のための大野城、太宰府に水城などを築いた。
664年 敗戦の兵、百済の人々の日本上陸、朝鮮半島の百済が、日本に移住?した形になった。
     朝廷が「甲子(かっし)の宣」を発する。
     百済の官位がそのまま日本で使えた。
664年 唐の百済占領軍の使者が来朝 半年居座る。 
665年 第2次使節が来朝 254人の使節
666年ごろから 新羅が唐に抵抗、抗争を開始した。
667年 近江遷都
     ようやく政治が安定、対馬・瀬戸内地区に、朝鮮式山城を作り、唐の来襲に備える。
668年 唐 倭国討伐の軍船修理
668年 高句麗滅亡
669年 唐の使節 2000人以上来朝
671年 天智天皇崩御
672年 壬申の乱


   大宝元年(701年)の大宝律令(及びその改良版の養老律令)の厩牧令(くもくりょう)では、
  駅馬の設置は大路二十疋、中路十疋、小路五疋、駅の設置は大路30里毎に一駅が原則であった。

  山陽道の場合、九州につながる大路として、原則30里(卅里)(16km)ごとに駅家(うまや)を設けていた。
  令制の「1里」は534m程度の距離
  当時、目安は、徒歩で1日50里、荷馬車で1日30里移動できることから、街道に30里ごとの駅家の設置を行った。


<2>山陽道の駅家

 『延喜式』の諸国駅伝馬条は、駅家・駅路関係の史料を掲載している。
 山陽道
  
<播磨国駅馬>明石30疋。賀古40疋。草上30疋。大市。布勢。
                 高田。野磨各20疋。越部。中川各5疋。
  <備前国駅馬>坂長。珂磨。高月各20疋。津高14疋。
  <備中国駅馬>。川邊。小田。後月各20疋。
  
<備後国駅馬>安那。品治。葦田各20疋。    となっている。


<3>古代山陽道駅家の装備

  古代山陽道は、唯一の大路であったので、馬20疋、駅の設置は30里毎に一駅が原則であった。
 また、中国、朝鮮の使節の接待、宿泊もあるため、各駅家を白壁で囲うなど整備を図った。
 「兵庫県竜野市の布勢駅家の風景」にリンク
 (そのほかに、乗具及び蓑、笠等は、馬の数に応じて設置することとした。)





<4>都の役人になったつもりで、一級国道「古代山陽道」を設計してみよう。

  1.瀬戸内海の海岸線は江戸時代に干拓された地区も多いことから、現在の国道2号線では通行できないところもある。
    平野は、昔海だったところが多く、内陸部に山陽道が作られた。

  2.646年(大化二年)の詔勅に「畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)
  3.650年(白鳳元年)に備前国司が任官したので国府は、そのときでできた。
  4.741年(天平13年)には、聖武天皇により「国分寺・国分尼寺建立の詔」があり国分寺ができた。
  5.国府は、古代山陽道を作ったときすでにあったが、国分寺は山陽道ができたあと、建てられた。
   古代山陽道を作るにあたって、国分寺がどこにあるかは、関係なし。
   (備前国分寺が岡山県赤磐市にあるから、山陽道は赤磐市を通過していたことにはならない。)
  6.地方の税を都に運ぶため、荷馬車が通行しなければならない。そのためには、ある程度、大きな山を回避して山陽道が作られた。


(工程@)

@播磨国の「明石駅」から備後国の「品治駅」まで、60里単位で駅を結ぶと、次のようになる。



このように、最初に設計した古代山陽道は、60里単位に、山か平野か関係なく、中国の道路をまねて、都に一直線の国道を建設を計画した。
地図をもとに線引きした図が上記の図である。
道幅は、6mから12mはあったらしい。

中国、朝鮮との連絡、筑紫大宰府、吉備大宰(惣領所)を結ぶ「大路」として設計され、特に重要な幹線国道として、整備した。
の中で、兵庫県「野磨駅家」は発掘調査で存在が確認されている。
広島県の「品治駅家」も確認されているが、岡山県内の「高月」「河邊」は推定地。


(工程A)

A次にその中間、30里単位に中間駅を表示すると次のようになる。



都から、九州まで30里単位に駅家を作り、人、馬、荷馬車の運行をまかなった。

各駅家は、その属する郡に役を課した。



(2)各駅家の位置について

@邑智駅家(大市(おおち)駅家):姫路市太市中


姫新線太市駅

太市交差点(この付近に太市駅家があった)

A「兵庫県竜野市の布勢駅家」(竜野市揖西町小犬丸)


竜野市歴史文化資料館には、布施駅家の資料が多数収められている。



B 兵庫県上郡町高田駅家付近 神明寺





C兵庫県上郡町野磨駅家付近 落地飯坂遺跡

  野磨駅家(兵庫県赤穂郡上郡町落地)


上郡町落地(おろち)の「落地飯坂遺跡」で、古代山陽道駅家(うまや)跡が見つかった。




D坂長駅家(推定地:岡山県備前市吉永町)


備前市吉永町吉永中付近から三石方面を望む


 坂長の地名は、和気郡坂長郷(和名抄)にあった駅で、古来から坂長駅家は、備前市三石との説が有力である。
しかし、野磨駅家の位置が確定したこともあり、
(1)野磨駅家ーー高月駅家間60里の間で、30里の中間地点として「藤野駅家」を設置し、
   野磨駅家ーー藤野駅家間30里の中間地点に「坂長駅家」を設置したとすると、
   落地「野磨駅家」から「坂長駅家」 約15里(8km)と考えれ、和気郡吉永町に設置したこととなる。
   (備前市吉永町田倉牛神社周辺)
(2)721年藤野郡が設置されるまでは、坂長郷は、邑久郡であった。
   1つの郡に駅家が2箇所設置された例は、少ないが播磨国ーー備前国の国境「船坂峠」は、難所であるので
   船坂峠の東西に駅家があったとしても不思議ではない。
   「藤野駅家」が廃止され、珂磨駅家が設置されたのにあわせて、坂長駅家も
   野磨駅ーー珂磨駅家の中間地点に設置されたとすれば、
   落地「野磨駅家」から「坂長駅家」 約20里(10.5km)と考えられ、和気郡吉永町に設置したこととなる。
   (備前市吉永町吉永中周辺)

いずれにしても、駅家の設置場所としては、備前市吉永町と考えられる。(私見)



E珂磨駅家(推定地:岡山県赤磐市松木)
 
 珂磨駅家は、788年 従来の「藤野駅」が廃止され、新たに設置された。

養老5年(721年) 備前国邑久郡、赤坂郡の2郡から藤原郡を始めて置く。
天平神護2年(766年)5月 赤坂郡珂磨、佐伯郷を割いて、藤原郡に属する。(続日本紀)
神亀3年(726年)11月藤原郡を改め、藤野郡とする。
天平5年(733年)和気清麻呂が、備前国藤野郡(現和気町)に生まれた。

延暦7年(788年)藤野駅を川西に遷置て、水難を避けんと、百姓の諸事ありて之を許す。(続日本紀)
延暦7年(788年)備前・美作国造 和気清麻呂公。備前和気郡。川西百姓170余人言い渡した。
あなた方は、元々、赤坂郡・上道郡の東の端の民である。
すこし前、天平神護2年に和気郡に割いて合併したが、藤野郷にある郡役所は川の東側にあり、大雨が降ると通うことができない。
新しく磐梨郡を作り、藤野駅を川西に遷す。もって、水難を避けて、かつ労役を均等にできる。之を許す。(続日本紀 延暦7年6月)


これによって、和気郡には、坂長駅(馬20疋)の労役、磐梨郡には、珂磨駅(馬20疋)と均等になる。
「磐梨」の名称は、和気氏の先祖の名前であり、吉井川西(現在の熊山町・瀬戸町)への配慮がうかがえる。
磐梨郡に属した「郷」は、可磨郷、佐伯郷(物部郷)、和気郷、石生郷、磯名郷、肩背郷、物理郷

従来から歴史家が、珂磨駅家の設置場所は、赤磐市松木であろうと説を公表しているが、遺跡は出てきていない。
赤磐市松木は、松木に小字「馬次」があることから、「まつぎ」が「まつき」になった説がある。
和気郷は、和気郡でなく磐梨郡にあった。


F高月駅家(岡山県赤磐市馬屋)

古くから備前の中心であり、旧山陽道に沿った駅家があると推定されている。

山陽町 稚媛の里



G津高駅家(岡山市一宮付近)
 
津高郡にあって、位置は特定されていない。一宮地区の辛川付近を推定している。

 一宮付近には、条里制があり、備前・備中国境(吉備津神社方面)から国道180号線の東に伸びる直線道路とその南、吉備津彦神社の参道を基準とした条里制がある。
その間南北に6町(約654m)である。山陽道は、国道180号線からまっすぐ東に伸び、峠を越えて、富原に至る。
ここに、古代の富原遺跡があり、津高駅家との説もある。


奈良時代頃の津高郡の郷には、津高郷、駅家郷、賀茂郷、建部郷があるので、
津高郡役所(郡衙)が津高郷の富原にあり、駅家は、一宮辛川にあったのではないか。










H駅について
 備前・備中の国境に吉備津神社 があり、その門前から西に伸びる。
倉敷市矢部にあったと推定されている。  鯉喰神社・ 楯築の弥生墳丘墓が近くにある。


足守川堤防から吉備津神社及び備前方面を望む。向かって右側が 吉備の中山
両方の山の間を古代山陽道は一直線に延びていた。



備前備中の山陽道(赤い線)




(5)古代山陽道について、整理すると

播磨の国  

*明石駅--「邑美駅」---賀古駅--「佐突駅」--*草上駅--邑智駅(大市駅)--布施駅--高田駅--*野磨駅--
 
「邑美駅」と「佐突駅」の2箇所は廃止                   
明石駅から賀古駅が30里、賀古駅から草上駅が30里で、明石駅から草上駅が一直線
草上駅から布施駅が30里、 布勢駅から野磨駅が30里で、ほぼ一直線
駅家の所在地 明石駅:明石市大蔵谷  馬 30疋配置
賀古駅:加古川市野口町野口   
駅ケ池(うまやがいけ)付近に賀古駅(かこのうまや)があったといわれ、池の名称もこれによる。
馬 40疋配置
草上駅家:姫路市今宿
邑智駅家(大市(おおち)駅家):姫路市太市中
布勢駅家:龍野市揖西町小犬丸
野磨(やま)駅家:赤穂郡 上郡町落地(おろち)飯坂遺跡
 
備前国〜備後国

*野磨駅--
坂長駅--「藤野駅」-珂磨駅---*高月駅---津高駅--駅--*河邊駅--小田駅--後月駅--安那駅-*品治駅  


 
 (注) 「藤野駅」は廃止された駅家

野磨駅から坂長駅が20里
坂長駅から珂磨駅が20里
珂磨駅から高月駅が20里
高月駅から川邊駅が60里でこの間に「津高駅」駅」があった。
河邊駅から品治駅が60里でこの間に「小田駅」「後月駅」「安那駅」があった。
駅家の所在地 高月駅家:赤磐市馬屋
安那(やすな)駅家:神辺町御領
品治(ほんじ)駅家:広島県福山市駅家町

  ・山陽道の設計者は、
     @山陽道の設計には、60里ごとをほぼ直線で結んで、その中央に30里単位の駅家を設けた。
     A788年ごろになると、往来も頻繁になり、駅家の充実を図った。
     B山陽道は、物資が枝道、地方道から京に物資を集積する道であるので、京に近い駅家ほど
      利用頻度が大きくなり、設備も大掛かりになった。
      
  
  ・その他資料

    788年 藤野駅を廃止して、珂磨駅を造る。
    806年 周防・長門などの駅家を瓦葺き・白壁にする
    889年 大前駅家が廃止になる
    大宝元年に(701)に制定された大法律令と、その後部分改修された養老律令(718)に、駅制・伝馬制の古代の交通制度が規定されている。

 

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作成者 藤本典夫