水島合戦古戦場(岡山県倉敷市玉島)



円通寺付近から瀬戸内海(南)方面を望む
中央に見える橋が「玉島大橋」で、向かって左側(東側)が乙島、右側(西側)が柏島(下の地図とは、左右逆です。)


柏島の平家の陣地付近  



約800年前の昔、1183年(寿永2年)閏10月この海峡で、水島合戦があった。
平家にとっては、都落ち以来、西国に逃れ大宰府まで落ち延びたが謀反にあって、また屋島に
戻ってきた。
西にも、東にも身動き取れない状態であったが、山陽道八ヶ国、南海道六ヶ国、都合十四ヶ国を
おさえ、着実に勢力を盛り返しつつあった。

 木曽義仲は、矢田判官代義清、海野弥平四郎行広を大将として、七千余騎を屋島に差し向けた。
 軍勢が備中国「水島の途」(水島の瀬戸)から、屋島に押し寄せようと準備中に、千余艘の平
軍が押し寄せてきた。
合戦が始まると、平氏軍は千余艘の船をことごとくつなぎ合わせて、船から船へ行き来できるよ
うにしたという。
 侍大将の、海野弥平四郎行広は討たれ、矢田判官代義清も船が転覆してあえなく落命する。
結局、源氏の軍勢は総崩れとなった。

寿永2年(1183)閏10月、水島合戦の源氏大敗ののち、
これを聞いた義仲はいよいよ平家打倒の決意を固め、自ら一万余騎を引き具して山陽道を下る。


(そのときの平家物語に登場する人物)

倉光三郎 和気郡和気町藤野に「倉光三郎成澄之塚」があり、妹尾兼康に殺害された。
(倉光三郎成氏か)
倉光次郎 備前国板倉川で妹尾兼康と一騎打ちになり、討ち死にした。(倉光次郎成澄)
妹尾太郎兼康 平家方の武将、備前国府を襲い、福隆寺縄手(岡山市津島)、篠の迫(岡山市笹が瀬)に城を構えて、
義仲勢を迎え撃ったが破れて、みどろ山(総社市上林「緑山」)で戦死


備中国万寿の庄まで進出、義仲のもとへ、京に残っていた樋口次郎兼光からの使者がやって来た。
義仲が留守の間に、後白河法皇が源頼朝に「十月宣旨」を発したり、京の情勢が不穏であった。

 注)「十月宣旨」とは、「東海・東山両道諸国の年貢・神社仏寺並びに王臣家領荘園は元の如く領家に従うべし、
不服あらば頼朝に触れて沙汰をすべし」として、関東地方の警察・司法・行政権を源頼朝に与えた。


義仲は、摂津国を経由して急ぎ京へとって返した。源行家(為義の子で頼朝の叔父に当たる。)も義仲も
不仲となっており、行家は義仲と顔を合わせないよう、入れ違いで丹波路を経由して播磨国に下った。
11月19日義仲はクーデターをおこし、後白河法皇の法住寺殿を攻め、法皇を五条東院へ幽閉した。

 11月29日行家は五百余騎をもって室山に押し寄せた。
 平家は陣を五つに張り、四陣まで行家軍を引き入れてこれを討つという作戦をとった。
 この作戦にまんまと引っかった行家の軍勢は、大軍に取り込められてさんざんに打ち負かされ、行家は
命からがら播磨国から和泉国へ逃げ延び、河内長野の城へ引きこもった。

 こうして水島、室山両合戦に勝利を治め、
1184年(寿永3年)1月にはかって平氏が遷都した摂津福原に戻り、播磨との国境に一ノ谷の城郭を構え
源氏に備えた。

1月10日源義仲、征夷大将軍となる。
1月20日、源範頼・義経軍が勢多・宇治で源義仲軍を打ち破り、源義仲は奮戦したが近江粟津で敗死した。
そして、2月7日、義経の鵯越えの逆落としで有名な「一ノ谷の合戦」で平氏は破れて、西国に落ち延びた。



倉敷市玉島の見所

水島合戦古戦場(2)

良寛さんゆかりの円通寺

西爽亭

幕末の玉島(熊田神社)


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作成者 藤本典夫