妹尾兼康
平家の武将 

岡山市吉備津にある鯉山小学校の傍らに兼康の墓と伝えられる宝篋印塔

近年同校の校庭から1000点をこえる土器とともに出土した頭骨が妹尾兼康の首ではないかと注目されている。


治承元年(1177)6月 鹿ケ谷の密議発覚

京都鹿ケ谷で、平氏打倒を密議した事件。
  藤原成親(新大納言成親卿 1138〜79)  備前国に流罪・惨殺
  6/18解官。7/2、備中(備前)有木の配流先へ到着。7/9、誅殺  「預かりの武士、難波次郎経遠」
  俊寛僧都(鹿ヶ谷の山荘所有者) 薩摩国喜界島に流罪
  西光(藤原成親の弟) 斬殺 
  藤原師高(西光の子) 尾張国井戸田へ配流、殺 
  藤原師経(西光の子) 備後国配流前に獄で殺。
  多田蔵人行綱(源行綱) 鹿ヶ谷の密議を密告したが、安芸国に流罪
  藤原成経(丹波少将成経 藤原成親の子) 薩摩国喜界島に流罪
   のち、許されて都に帰る途中、藤原成親の弔いを「吉備の中山」で行った。
   平家物語では、治承三年二月十日児島に到着し、「孝子成経」として語られている。
  平資行(たいらのすけゆき)  美作国に流罪
  平康頼(たいらのやすより)  喜界島に流罪
    など・・・・


安元3年(1177)鹿ケ谷での密議が露顕して大納言藤原成親らが捕えられた時には清盛の命で成親を呵責し、
鬼界ケ島へ流罪となった成親の嫡子丹波少将成経を一時備中瀬尾へ預かっている。
岡山市 藤原成親の遺跡


治承4年(1180)には、鎮圧軍500余騎を率いて奈良へ入ったが、清盛から甲胄の着用、弓箭の所持を禁じられていたため配下の60余人が討たれ、 これが平重衡による南都焼き打ちの原因となって興福寺や東大寺などが炎上した。


寿永2年(1183)平清盛の孫の平維盛と源氏の木曾義仲が戦ったという源平倶利伽羅合戦 で、平家方として参加していたが敗れて捕虜となり、何とか、源氏をだまして備前までたどり着いた。 和気町「倉光三郎成澄之塚」

そこで、倉光三郎を殺害し、
平家のために、備前・備中・備後三国の兵二千余人を集めて福隆寺縄手(ふくりゅうじなわて)、笹の迫(ささのせまり)に戦って敗れ、 さらに板倉でも敗れて一旦は敗走するが、肥満のため動けなくなった嫡子宗康を見殺しにできず引き返して討たれた。 妹尾兼康 最後

妹尾兼康は、総社市井尻野の湛井堰で取水する十二カ郷用水を整備したと伝えられている。
江戸時代の記録によると、この用水は寿永元年(1182)妹尾兼康が目論見、福井二郎左衛門が奉行となって築造したという。
湛井堰の守護神井神社境内に「兼康神社」が祭られている。

総社市 井神社、兼康神社

 

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作成者 藤本典夫