備中高梁

@頼久寺 

 小堀遠州作の庭園が見事、特にサツキの刈り込みが見所ですので、満開のころが一番きれいです。

Aふるさと村 

 備中松山藩は、明治維新の当時、老中板倉勝静の城下町
 その武家屋敷が「石火矢町ふるさと村」としてのこり、散策する人も多い。
B高梁鍛冶町郵便局(俗称 紺屋町郵便局)
高梁を訪れた「河井継之助」が泊まった文武宿「花屋」跡なので、人気スポットとなった。高梁の古い町並みがある。

河井継之助は、この旅を日記「塵壺」に記した。



  
 
C高梁市 有終館跡

備中松山藩の藩校 火災にあった藩校を山田方谷が再興した。

D高梁市 郷土資料館

 山田方谷の銅像がある。あらゆる民芸品を収集している。
高瀬舟は、興味ある人必見
E山田方谷生誕地
(高梁市中井町 高梁市内から20km以上北に行ったところ)

文化2年(1805)〜明治10年(1877)


F熊田恰(くまた あたか:1825〜1868)
岡山県倉敷市玉島 「西爽亭(倉敷市旧柚木家住宅)」での出来事
幕府の老中板倉勝静公の家臣が、鳥羽伏見の合戦に破れ、
海路、1月17日、備中松山藩領の玉島まで帰還した。

この軍勢を率いていた熊田恰は、この場所(次の間)で、備中松山藩の家臣団150余名の助名嘆願し、血書を書いて自刃した。

G名前の入った駅 方谷駅
            
             
山田方谷は、1859年には、この地に居住していた。
ここから、備中松山に出かけていた。
明治になって、備中松山藩が、無血開城したあと、長瀬を本拠とした。

長瀬塾は、多くの門弟を教育した私塾

長瀬塾 備中阿賀郡(今上房郡)西方村長瀬ノ里、開塾ハ明治三年秋マデ

H見返りの榎(JR方谷駅の川向)
 
 司馬遼太郎の「峠」で有名な場所
 
 方谷に入門していた「河井継之助」が長瀬塾から旅立つとき何度も振り返ったといわれる。
   (1860年 継之助33歳の時)

  


大佐町小南 山田方谷記念館・方谷庵
山田方谷生誕地
私塾を開講
高梁見所
山田方谷が活躍した備中松山を訪ねた


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作成者 藤本典夫