備前軍記より

 この合戦のとき、児島郡林村(現倉敷市林)の権現の五流山伏、顕徳院が、その配下の山伏を大勢連れて本太の城中に入り、祭壇を設け、怨敵降伏の法を行い、肝胆を砕いて祈祷した。
合戦の途中俄に雨が降り霧が下りたのは、この祈祷の霊験であると城中で評判となった。

 この怨敵降伏の祈祷を行った林の五流山伏というのは、文武天皇の三年(699年)役行者が伊豆国大島へ配流されたとき、その門弟の義学・義真・義玄・斉玄・方玄という行者が、配流の難を避けるため、紀州熊野本宮の神輿を船に乗せ、海上を児島に逃れ、福岡の邑、即ち今の林村に奉祀した。
 その後、天平宝字五年(761年)に、新宮を木見村(現同市木見)に移して諸興寺といい、また山村(現同市児島由加)に那智権現を勧請して瑜伽寺といった。林村の本宮を合わせてこれを新熊野三山と称した。さきの五人の行者の末流が今の五流である。
 後鳥羽天皇の時、三井寺長吏覚仁親王、即ち桜井宮が初めて新熊野山検校に補せられ、以後今に至るまで、聖護院宮が代々その職に補せられている。
 桜井宮は、この地林権現の検校であったから、承久の乱(1221年)を避けて児島に下り、尊瀧院に居られた。その兄宮の頼仁親王こと冷泉宮も、この地に配流され、兄弟一緒に住居された。
冷泉宮は宝治元年(1247年)四月十二目に薨去され、桜井宮は弘長三年(1263年)三月二十八日に薨去された。
   注  冷泉宮の御墓は木見村にあり、桜井宮の御墓は林権現の境内にある。
 この冷泉宮の御子道乗僧正は、桜井宮の弟子となられた。この道乗僧正の御子が、五流のそれぞれの家の主となり法嗣となられた。それ以後、その子孫は他姓の者を交えず、皇胤と称した。
 しかるに応仁の乱のとき、五流の中の覚玉院円海が、細川勝元と所縁があるところから、その権威をかりて林権現の一山を我が物顔に振舞った。衆徒はこれを憎み、覚玉院を滅ぼそうとした。そこで覚玉院は林権現を退き、備中国の西阿知(現倉敷市西阿知町)に赴き、兵を集めて林村に乱入し、林権現の伽藍僧坊を一宇も残さず焼き払ってしまった。これより双方互いに度々合戦を繰り返した。
 その後、秀吉の備中高松攻めのとき、秀吉は林権現の衆徒に加勢を求めたが、林権現は兼ねて毛利と結んでいたから秀吉に加勢を断った。そのため豊臣の天下になると、当山の所領はことごとく没収された。このように当山は、修験道では全国の本山であったから、児島地方では林権現を厚く信仰し、祈祷などを頼んだので、その霊験もあったのであろう。






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作成者 藤本典夫