瀬戸町観音寺地区

大廻小廻山城遺跡の一の木戸



瀬戸町観音寺の案内看板 一の木戸



木戸が3箇所発見されており、その2つの木戸が観音寺方面であることが興味深い。


朝鮮式山城の出来た時代:岡山市 大廻小廻山城遺跡

       645年  大化改新
       663年  韓国の白村江(「ハクソンコウ」又は「はくすきのえ」)で、日本と百済が、
             新羅と唐の連合軍に大敗した。
       663年  日本に亡命した百済人によって、九州に防衛のための
             大野城、太宰府に水城などを築いた。
       664年  敗戦の兵、百済の人々の日本上陸、朝鮮半島の百済が、
             日本に移住?した形になった。
             朝廷が「甲子(かっし)の宣」を発する。
             百済の官位がそのまま日本で使えた。
       664年  唐の百済占領軍の使者が来朝 半年居座る。 
       665年  第2次使節が来朝 254人の使節
       666年ごろから 新羅が唐に抵抗、抗争を開始した。
       667年  近江遷都  ようやく政治が安定、
             対馬・瀬戸内地区に、朝鮮式山城を作り、唐の来襲に備える。
       668年  唐 倭国討伐の軍船修理
       668年  高句麗滅亡
       669年  唐の使節 2000人以上来朝
       671年  天智天皇崩御
       672年  壬申の乱

   日本が、巨大帝国「唐」に追い詰められた。
   首都を変えたり、あの手この手ではぐらかす。日本人気質が完成した?
   古代朝鮮式山城は、高地でも水が確保でき、瀬戸内海を見渡し、唐が攻めてきたとき、
   素早く連絡が出来るなど条件が厳しい。
   岡山県側の山城2つと香川県側の山城2つがちょうど対になって造られているのも
   興味がある。
   又、近くに国府があるのも、唐に対する防衛拠点であったことがうかがえる。


   この山城は、神籠石系山城として注目されている。
   築城年代も、半島から渡来人がわたってきたもっと古い時代にさかのぼる説がある。
   渡来人が、古くから製鉄など先端技術を持ち込み、定着していた地域では、防御要塞が必要であった。


神籠石系山城について
(1)神籠石(こうごいし)とは、「日本書紀・続日本紀」等に記録されない古代山城のことで、正しくは「神籠石系山城」という。
 山の中腹に、1立方メートルほどの整形した石を並べ、これを前面の基礎にして、上に土塁を築いたものである。延長は約2〜3kmにおよぶ。列石が谷を渡る部分は排水口を備えた石塁が築かれ、城門も備えている。神籠石という名は、福岡県久留米市の高良大社「縁起」にあり、これを明治31年(1898年)に小林庄次郎が、「神籠石」として列石遺構を紹介したことから、広く知られるようになった。
(2)古代山城には「神籠石系山城」と「朝鮮式山城」がある。
 いずれも古代朝鮮式山城なのだが、「日本書紀・続日本紀」等に記録のない古代山城のことを特に「神籠石系山城」といい、北部九州に10ヶ所、瀬戸内沿岸に6ヶ所(播磨城山・大廻小廻山・鬼ノ城・讃岐城山・永納山・石城山)が発見されている。



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作成者 藤本典夫