備前国虎倉城





伊賀氏の居城


 鎌倉時代に、北条光宗は政所執事となり、甲斐国岩間牧・常陸国塩籠荘・大窪荘・陸奥好島荘・若狭国日向浦・谷田寺・但馬国広谷荘・備前国則安名・長田保・紙工保などを知行した。
 1294(永仁2)年備前国長田荘の地頭となった一流は同地を拠点として備前の国人に成長した。
 伊賀氏は、一時「式部氏」と名乗っていたが、戦国時代には、伊賀氏となっている。
 戦国時代、伊賀伊賀守久隆は津高郡虎倉城を拠点として活躍した。

永禄十一年(1568)には直家に加勢して松田氏を攻略、津高郡北部のほか上房郡南部、真島郡南部を領有した。
推定15万石の領地を支配した。

天正二年(1574)二月、上房郡竹庄から備前へ進出してきた毛利勢と虎倉城西麓で戦い、激戦のすえ毛利勢を撃退した。
同六年(1578)には毛利氏の播州上月城攻めに出陣した。
 しかし、伊賀久隆は直家に毒を盛られ、虎倉城へ逃げ帰ったが、まもなく没した。

 久隆の子家久は、久隆の弟の子ともいわれ、妻は宇喜多氏の重臣明石景親の娘であった。
父久隆が直家に毒を盛られて死亡すると、虎倉城に籠城して直家と対決せんとしたが、
義父景親の説得で城を出て毛利氏を頼った。

天正七年、毛利氏が宇喜多勢の籠る備中忍山城を攻めたときには、勝尾山に陣を敷き、救援にくる直家の背後を衝こうとしたが果たさず、直家の弟春家の守る金山城を攻め敵多数を討ち取った。以後、小早川隆景に属した。

 その後、家久には、娘がおり、毛利氏の家臣井原氏に嫁した。
井原氏がみえる。関係者か。

井原元造(いばら もとなり)(生没年不詳) 【列伝】毛利家譜代衆。父井原元師の嫡男、妻伊賀家久の娘、子元良、娘秋山元信妻。次郎。中務少輔。安芸鍋谷城主。
http://blog.livedoor.jp/sakonsimotukenokami/archives/2797782.html

鎌倉幕府と伊賀氏

鎌倉初期の朝光が伊賀守だったことから伊賀姓を呼称したとされている。
娘は執権北条義時の室となって北条政村実泰を出産。
伊賀氏の血を引くものが執権となった
 
伊賀光季は承久3年(1221)、京都守護となり、「承久の変」承久3年(1221)、で上皇方と戦って自刃している。
伊賀光宗は政所執事となり、備前国則安名・長田保・紙工保などを知行した。
しかし
「伊賀氏の乱」元仁元年(1224)を起こした。



伊賀氏の乱

元仁元年(1224)幕府執権・北条義時が急死した。執権の後継をめぐって、この乱が起こった。
 
 このとき、伊賀氏は、伊賀朝光とその子の光宗の時代であって、鎌倉幕府の御家人でも、有力御家人であった。
 伊賀朝光の娘(政村の母)は、兄弟で政所執事の伊賀光宗と謀議の上、新将軍に娘婿・一条実雅を、執権に
 実子・北条政村をそれぞれ就任させようと画策。政村の元服の際の烏帽子親である三浦義村も抱き込む。
 6月28日、北条政子は北条政村の兄の北条泰時を執権に指名し伊賀氏の機先を制する。
 7月中旬、北条政子は三浦義村の邸宅へ乗り込み直談判に及び説得に成功。
 
 伊賀朝光の娘は伊豆国北条へ、光宗は政所執事解任の上で信濃国へ、
 一条実雅は越前国へ、とそれぞれ流罪に処せられた。
 
のち伊賀氏は、許されて評定衆となり、孫の光政も引付衆となっている。
北条政村は、のち執権になった。

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作成者 藤本典夫