藤原保則(赤磐郡誌より、出典は「藤原保則伝、大日本史」から抜粋したもの)

 藤原保則は、貞観(じょうがん)8年42歳にして、備中権守となり、赴任すると大飢饉の後を受けて、とくに今の阿哲郡の辺りは、疲弊最も甚だしく、白昼にも、強盗が横行し、道にさえ餓死したものを見るありさまで、全くの生き地獄であった。
 そこで、保則は、まず、貧困者を救い、大いに農耕を励まし倹約を勧めたので、漸く(ようやく)窮民も豊かになり盗賊も後を絶った。
 
貞観16年(860年)備前権守となったが政績は殆ど(ほとんど)かわらない。もし部下に悪者あらば、ひそかに説き、或は、自分の財産を分け与えた。
もし、国内に大事あれば、必ず自ら、吉備津神社に詣でて、これを祈ったが、常に感応があったと。
為に教化が大いに行われて、父母のごとく慕われた。
あるとき、安芸の賊が備後に入り込み、調の絹を盗んで、備前磐梨郡にきて、宿の主人に備前国司のことを聞くと、藤原保則の善政がいき渡っており、「仁義を持って教え、国人みな廉潔を守り、信義を重んじること神明に通じている。ゆえに、もし悪事あらば吉備津の神のお叱りを直ちに受ける。」このことを聞き、盗人大いに驚いて、夜も寝られず、夜明けとともに、国府にいたり自首していった。
「わたしは、備後の官絹40匹を盗みました。どうかお仕置きください。」と
保則その状を喜び、召して食事をとらせ、その絹を封じ、添え書きして備後に持ち帰らせた。
備後の国司小野喬査、怪しみ且つ喜び直ちに盗人を赦し、自ら備前に至り、保則に深謝した。

貞観17年役目を終えて、京に帰るとき、両備の人が道を遮り、泣いて別れを惜しむ。老人が酒を持ってきて酒、肴を勧めて止めない。
保則老人の言に反することをおそれ、滞留すること数日、その間訪れる人絶え間なく、保則困り果てて、ある夜、ひそかに小船にのって去った。従者を待つため、和気郡方上津に停泊した
郡司その糧食の少なきを聞きて、白米二百石を贈る。保則その志を喜んで是を受け、国の講読師に書を送り、「船中に怪事が多い。僧に頼んで祷らしめよ」と。そこで、国分寺の僧を遣わす。保則乞うて般若心経一本をよませた、贈られた白米は全て布施して去った。
これぞ、官界に職を奉ずるものの鑑である。



その後、藤原保則は、元慶二年(878)秋田県でおきた反乱を鎮めた。

元慶の乱
(その一節には、次のように紹介されている。)
政府側は事件解決のために、当時有能な地方官として名のあった藤原保則ヤスノリを起用 した。保則はこの時には右中弁(太政官の事務機構を担った右弁官局の幹部)であったが、先には備前国・備後国の国司として善政を行い、良吏の誉れの高かった人物と云う。





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作成者 藤本典夫