備前国府について

備前国府はまだ特定されていない、
現在、岡山市が備前国府跡としている場所は、中世以前の遺物がなく、古代の国府跡ではないらしい。
そこで、鎌倉時代以前の国府について考察してみることとした。

年   代
(国府推定地)
国府の所在地の条件 登場 資料の要約
650年
白鳳元年
白鳳元年 備前国司 当摩公広島(當摩廣島) 任命       
天智天皇の時代
667年
(国府は、大廻、小廻山城の近辺)旧上道郡玉井地区、赤坂郡高月
@朝鮮式山城「大廻、小廻山城」が岡山市草ヶ部、瀬戸町境にある。
A朝鮮式山城は、篭城用の城であるから、国府から逃げ込みやすい場所が有力
B朝鮮式山城「大廻、小廻山城」の「一の木戸」は、瀬戸町観音寺方向にある。
逃げ込むのは、この木戸からとなる。
C赤坂郡の両宮山古墳・備前国分寺辺りからすぐ南が瀬戸町観音寺であること。
D瀬戸町観音寺は、旧上道郡玉井地区であること。

E瀬戸内海、四国と連携して、唐の来襲を監視できる。
Fすぐ北の山にのろし台を作って、山陽道沿いに急を知らせる方法も取っていた。
韓国の白村江
での敗北
  
645年 大化改新

663年 韓国の白村江(「ハクソンコウ」又は「はくすきのえ」)で、日本と百済が、新羅と唐の連合軍に大敗した。
663年 日本に亡命した百済人によって、九州に防衛のための大野城、太宰府に水城などを築いた。
664年 唐の百済占領軍の使者が来朝 半年居座る。 
665年 第2次使節が来朝 254人の使節
667年 近江遷都
 ようやく政治が安定、対馬・瀬戸内地区に、朝鮮式山城を作り、唐の来襲に備える。
671年 天智天皇崩御
672年 壬申の乱
一説に
赤磐市河本
(赤坂郡高月)
(備前の政治状況)
@備前国司 當摩廣島は、吉備大宰(惣領)と思われる。
(備前国に吉備太宰があったかもしれない。)
A壬申の乱では、兵力動員に筑紫、吉備が重要な場所であった。
B当時の官衙には、郡衙
・駅家・軍団・城柵があった。特に、 筑紫、吉備には、国営の軍団・城柵が設けられ、常駐した兵士がいた可能性が高い。
C備前国司 當摩廣島を「吉備の総領」として切り殺している。
D古代の物語で、稚媛伝説で、樟媛が登場するが、やはり切り殺し役になっている。よく似ている。
(国府の条件)
@国府は、古代山陽道に隣接していること
A国府を連想させる「こう」が使われていること。
B軍事施設、兵糧貯蔵場所がある。
C大廻小廻山城の木戸に近い。
D国分寺の監督ができる。警護ができる距離であった。

当摩公広島 646年(大化二年)の詔勅に「畿内の国司、郡司、関塞、斥候、防人、駅馬、伝馬を置く」(『日本書紀』)

650年(白鳳元年)に備前国司が任官した。

古代山陽道
中国、朝鮮との連絡、筑紫大宰府、吉備大宰(惣領所)を結ぶ「大路」として設計され、特に重要な幹線国道として、整備した。

671年 天智天皇崩御

672年(天武天皇元年)6月、近江朝廷の大友皇子側は、東国と吉備、筑紫(九州)に兵力動員を命じる使者を派遣したが、 東国の使者は大海人皇子側の部隊に阻まれ、吉備と筑紫では現地の総領を動かすことができなかった。
使者として樟磐手(くすのいわて)を派遣し、従わない反対派の備前国司(吉備総領?)当摩公広島を切り殺している。

672年 壬申の乱


(国府は、大廻、小廻山城の近辺)旧上道郡玉井地区、赤坂郡高月 石川王は吉備大宰(吉備総領)として少なくとも吉備国 (後の備前国・備中国・備後国・美作国)と播磨国を治めた


石川王(いしかわのおおきみ)は、天武天皇の時代、吉備大宰を務めた。
また、『日本書紀』によれば679年の死亡時に石川王は吉備大宰であった。
672年の壬申の乱の後、石川王の大宰任命、679年(天武天皇8年)3月9日に吉備で死んだ。
860年ごろ
平安時代
(国府は上道郡・岡山市古都地区)

@貞観年間、賊の経路は、備中から備前に入り、磐梨に至るので、 国府は、磐梨郡もしくは上道郡あたりか。
A小船で脱出して片上に行くためには、吉井川又は旭川の西側であること。
B小船を出すためには、吉井川又は旭川に近いところ。
C山陽道からそんなに遠くない場所
  当時、磐梨郡に宿場があったので、山陽道は磐梨郡を通過していた。
Dこの当時、国司が2名(藤原山陰・藤原保則でどちらも守となっている。)赴任しており、藤原保則は権守であった。
E両備(備前備中)の人が道を遮った。
 備中に近い場所かもしれない。
F必ず自ら、吉備津神社に参拝しているので、吉備津神社に近い。
G備前にも吉備津神社があり、その周辺ということになる。
操山(笠井山)に吉備津神社(吉備明現宮)があった。

備前国司
藤原保則

貞観16年(860年)備前権守となった。
国内に大事あれば、必ず自ら、吉備津神社に参拝していた。
あるとき、安芸の賊が備後に入り込み、調の絹を盗んで、備前磐梨郡にきて、宿の主人に備前国司のことを聞くと、 藤原保則の善政が行き渡って「仁義を持って教え、国人みな廉潔を守り、信義を重んじる。 もし、悪事あらば吉備津の神のお叱りを直ちに受ける。」このことを聞き、翌朝、国府にいたり自首した。

貞観17年役目を終えて、京に帰るとき、両備の人が道を遮り、泣いて別れを惜しむ。老人が酒を持ってきて酒、 肴を勧めて止めないので、小船で脱出し、従者を片上の港で待った。


吉備津岡辛木神社と笠井山周辺

@御祭神は吉備若建彦命(吉備津彦命の弟)
A吉備若建彦命は、上道・海面のあたりを平定した。
  「備前の吉備津は、ここ1箇所しかない」
B古くは現在より西の山頂にあって吉備明現宮と言った。 
すぐ、西の山頂は、笠井山か。
 この山は、国府跡が出土した高島小学校のすぐ南の山で、標高136mほどの小高い岡である。
C山頂に広く平らな場所があり、四角に石を囲った場所がある。



D吉備明現宮はそれから南にすこし下ったあたりに、平地がありこの辺りに社を作ったのではないか。
 児島湾が見える絶好の場所である。
 (現在は雑木が生い茂る森の中)


@御祭神は吉備若建彦命(吉備津彦命の弟)。
A吉備若建彦命は、上道・海面のあたりを平定した。
B古くは現在より西の山頂にあって吉備明現宮といった。
C備前国式内式外(しきないしきげ)128社の一つに数えられ
 る古い神社である。


この吉備明現宮であれば、貞観16年(860年)に、藤原保則が国府から、お参りできる。

鎌倉時代、岡山市藤井あたりに、鎌倉政庁があれば、吉備津の神域に行く参道として、米田遺跡の橋をかける意味がある。
岡山市神下もこの明現宮の下に見える。

延長5年(927)平安時代
(国府は、不明)
@国府は、中央との連絡をとるため、山陽道に近い場所である。

--備前市三石?--赤磐市松木?---赤磐市馬屋----岡山市富原---倉敷市矢部---
延喜式 『延喜式』兵部省「諸国駅伝馬」の条
  『延喜式』は平安時代に編纂された
諸国駅伝馬条は、駅家・駅路関係の史料を掲載
<備前国駅馬>
坂長、珂磨、高月、津高

延喜式(延長5年(927)に選上)

983年
平安時代
(国府は御野郡)
@御野郡は、旭川の西側
A備前総社宮の西に旭川の渡しがありその西側から津島・伊福あたりが候補地
和名抄 国府は御野郡にあり。

御野郡の郷名(牧石、廣世(弘世)、出石、御野、伊福、津島)
時期不明 山陽道が磐梨郡から赤坂郡を通過していたものが、南に移動し、上道郡を通過するようになった。 1572年〜1580年ごろまでに、宇喜多直家が山陽道を岡山市内を通過するように変更するまでの旧山陽道
1177年
平安時代
(国府は上道郡西部・国府市場)
@関白屋敷が岡山市湯迫にある。
 関白藤原基房を最初、国府に留めたとの記述もあり、国府からすぐの北の山中に留め置いたと考えられる。
 岡山市湯迫のすぐ南の平地に国府があったのではないか。(岡山市国府市場)
A岡山市 大字「国府市場」は、東西に長い地区で、岡山市湯迫のすぐ南で、国府市場地区内の東側。
(國長、北國長など小字は、西側である)
B最近の発掘で、高島小学校から三河国府で発見された物とよく似た羊形硯の破片が発見された。
(ハガ遺跡、国府付属寺院跡といわれている。)
(国府市場地区の中央付近)
平家物語

(平家物語)大臣流罪(だいじんるざい)
治承三年十一月十六日、入道相国(平清盛)は関白藤原基房をはじめ四十三人の官職を停止し押し込めた。
関白藤原基房を大宰師(だざいのそつ:大宰府の官職)に移して、筑紫へ流罪とした。
関白藤原基房は、鳥羽の辺の古河というところでご出家した。
年は、35歳。
配所へ赴く人が、途中で出家すれば、約束の国には遣わされぬことなれば、はじめ、日向の国へのうわさがあったが、 のちには、配所を変えて、 備前国府の辺、いばさまという所にとどめる
 これまでも、大臣経験者の流罪は、6人あったが、摂政関白の例は、これがはじめてである。

鎌倉時代
1192年以降
(国府は、上道郡福岡荘にあった。岡山市浦間、寺山、西祖あたり)
上道郡の東端が候補地

備前刀の「福岡一文字」も同左が有力

一般的に福岡に含まれる範囲は八日市・福岡・福永である。
現在の福岡は、吉井川の東側であるが、当時は吉井川の西側であったので、邑久郡ではなく、上道郡または上東郡であった。
つまり、西平島・東平島・西島・吉井・一日市・西祖・寺山・浅川・浦間・矢井・南古都・楢原・百枝月・内原・才崎と同じ地域であった。


上道郡福岡荘について
(1)鎌倉将軍の頃より、国府市場の国府すたれて、邑久郡福岡へうつりけるが、・・・(寸簸塵:土肥経平)

(2)西平島・東平島・西島・吉井・一日市・西祖・寺山・浅川・浦間・矢井・南古都・楢原・百枝月・内原・才崎、 以上15か村を福岡荘としている。(備陽国誌)



<参考資料>


(1)岡山市高島地域には、國長の小字名が多くみられる。

(関係小字名) 

旧郡 大字 小字
上道郡 岡山市国府市場 北國長、南國長、國長
岡山市祇園 國長
岡山市今在家 國長
岡山市新屋敷 國長
岡山市湯迫(ゆば) 関白屋敷
岡山市藤井 鎌倉
岡山市中尾 孫八屋敷など○○屋敷が17ヶ所あり
岡山市南古都 ○○屋敷が7ヶ所あり
瀬戸内市長船町八日市 大将軍
瀬戸内市 長船町長船 城の内

(2)岡山市高島地域のハガ遺跡
  場所:岡山市国府市場



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作成者 藤本典夫