日本書紀巻第3 神武天皇
       (出典:講談社学術文庫 日本書紀(上) 宇治谷 孟氏著)



東征出発



・・  略  ・・・・・・

11月9日 天皇は筑紫の国の岡水門につかれた。

12月27日 安芸の国について埃宮(えのみや)においでになった。

翌年乙卯(きのと・う)春3月6日に吉備国に移られ、行館(かりのみや)を
造っておはいりになった。 これを高島宮という。

3年の間に船舶を揃え兵器や糧食を蓄えて、一挙に天下を平定しようと思われた。

戊午(つちのえ・うま)の年、春2月11日に天皇の軍はついに東に向かった。

舳櫨相つぎ、まさに難波碕に着こうとするとき、早い潮流があって大変早く着いた。

よって、名づけて浪速国とした。

また、浪花ともいう。今難波というのはなまったものである。

3月10日川をさかのぼって、河内国草香村の青雲の白肩津に着いた。




  「建国記念の日」の賛否はともかく、
  2月11日は吉備の国(高島宮)を神武天皇が御立ちになった日であった。


日本書紀の中で

翌年乙卯(きのと・う)春3月6日に吉備国に移られ、行館(かりのみや)を
造っておはいりになった。 これを高島宮という。
戊午(つちのえ・うま)の年、春2月11日に天皇の軍はついに東に向かった。



乙卯(きのと・う)春3月6日
戊午(つちのえ・うま)の年、春2月11日の年号の特定について

                          (参考文献:解説「謎の四世紀」文芸春秋刊 小林惠子著)

考えられる乙卯(きのと・う)年は、235年・295年・355年・415年である。

神武天皇から第8代までは、欠史八代と呼ばれているが、
日本書紀の作者が、朝鮮半島の書物に通じていれば、高句麗の王をモデルに
日本歴史と容易に関連づけられた。
 神武天皇が高句麗の東川王になぞらえ、物語を作成したならば、以下の年表が成立する。

このことから、日本建国の年を、日本書記の作者は、238年の
戊午(つちのえ・うま)の年を
考えていたのではないか。

 



関係年表

注)この年表は、作者の仮説ですので、その前提でご覧ください。



234年  百済   古爾王即位(234年から286年まで)
235年乙卯(きのと・う) 春3月6日に吉備国に移られ、行館(かりのみや)を
造っておはいりになった。 これを高島宮という。

238年戊午(つちのえ・うま)の年
(日本建国か?)春2月11日に天皇の軍はついに東に向かった。
 4月9日竜田、5月8日雄水門、9月5日高倉山、12月4日長髄彦を討つ、
239年 2月20日天下平定、3月7日宮殿造営
239年  
中国   卑弥呼が魏に使いを送る。

241年  辛酉(かのととり)の年春1月1日、天皇は橿原宮にてご即位された。
247年  神武天皇崩御 
太歳己卯(丁卯のこと:己卯の48年後)の年
  
日本書紀の作者は、天皇崩御の年を太歳己卯(西暦では、199年・259年・319年・379年など)としているが、このページでは、その48年後の丁卯の年(247年・307年・367年が考えられるが、ここでは、247年)と仮説を立てた。
  
248年  高句麗 東川王死去
 神武天皇との説がある。

248年  高句麗 中川王即位
(248年から270年まで)
248年  日本  綏靖天皇(第2代天皇 即位) 太歳庚辰(戊辰のこと:庚辰から48年後の年

第2代天皇即位の年を太歳庚辰(西暦では、200年・260年・320年・380年などが考えられる。)としている。まず、高句麗中川王の即位の年(248年)を「えと」で表示し、戊辰の年(248年)ができるので、そのにかえれば、高句麗と違った日本の歴史が誕生する。
12年単位で、4回まえの「えと」つまり48年前の「えと」を即位の年としている。
このページでは、西暦200年の48年後を天皇即位の年、戊辰の年(248年)として年表を作成した。
ここでは、日本の天皇が実在していたかどうかよりも、日本書紀の作者の博学に感心してもらいたい。

269年  日本  安寧天皇(第3代天皇 即位  太歳癸丑(丑:癸丑233年の36年後)(みずのと・うし)の年)
第3代天皇即位の年を太歳癸丑(西暦では、233年・293年・353年・413年などが考えられる。)としているが、西暦233年の36年後の己丑の年(269年)を基準に、12年単位で、3回まえの「えと」つまり36年前の「えと」を即位の年(233年)としている。

270年  高句麗 西川王即位(270年から292年まで)
286年  百済   責稽王(286年から298年まで)
289年  中国   東夷絶遠30余国が貢朝(晋書)

 
高句麗から西川王が日本にきた説がある。
292年  高句麗 烽上王即位
(292年から300年まで)

295年 日本 第4代 懿徳天皇即位  太歳辛卯(乙卯:辛卯271年の24年後
318年 日本 第5代 孝昭天皇即位  太歳丙寅(戊寅:丙寅306年の12年後
329年 日本 第6代 孝安天皇即位  太歳己丑(己丑己丑329年
359年 日本 第7代 孝霊天皇即位  太歳辛未(己未:辛未311年の48年後
363年 日本 第8代 孝元天皇即位  太歳丁亥(癸亥:丁亥327年の36年後)
408年 日本 第9代 開化天皇即位  太歳甲申(戊申甲申384年の24年後)

このように、12年単位で年代をずらす方法が作者の楽しみであった。


ここから、また新たな歴史が始まる。

270年  高句麗 西川王即位(270年から292年まで)
286年  百済   責稽王(286年から298年まで)

288年 日本 第9代 開化天皇即位  太歳甲申(戊申甲申264年から24年後
      なぜ、264年に戻るのか疑問が残るが、「えと」は60年単位で元の戻るので
      中国、高句麗の書物から「えと」をたどると、「きのえ・さる」は、甲申264年・甲申324年・甲申384年はともに、同じ年として扱うことがある。
289年  中国   東夷絶遠30余国が貢朝(晋書)
292年  高句麗 烽上王即位(292年から300年まで)
298年  高句麗 百済を攻める。  百済・責稽王殺害
300年  高句麗 美川王即位(300年から)
300年  日本  崇神天皇(第10代天皇即位)太歳甲申(庚甲申264年の36年後

310年  百済応援に、吉備の先住民の出雲振根(百済の王子温羅)が筑紫に行った。
       その後、吉備に帰還したが、四道将軍「吉備津彦」に攻められ、殺された。
       朝鮮半島だけでなく、日本でも高句麗系が百済系を攻めた。

320年  日本 垂仁天皇(第11代天皇即位) 太歳壬辰(庚辰:壬辰272年の48年後)
320年  高句麗 美川王が10年間所在不明、その間日本に逃げていた。
323年  日本 景行天皇即位  太歳辛未(丁未:辛未311年の12年後

        景行天皇 2年春 3月3日 播磨稲日太郎姫を皇后とする。
        その子 日本武尊誕生





       

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作成者 藤本典夫