桜井の駅

大阪府島本町 JR島本駅 すぐ


楠木正成、楠木正行の「楠公父子訣別之所」として有名

1336年(建武3年)5月
桜井の駅で、楠木正成が、息子の正行に対し、「自分は生きて帰らないつもりで兵庫に向かうので、お前は故郷に帰って、
老いた母を助けよ、そして、早く大きくなって朝廷のために尽くせ」と諭したと記している。

楠木正行は、11歳であったとも。




延元元年(1336) 5月25日、摂津国湊川で足利軍と戦い、楠木正成・正季兄弟、死す(湊川の戦)
    11月、足利尊氏、幕府を開く。
    12月、後醍醐天皇の京の脱出後、楠木正行ら一族郎党が河内国にて出迎える。
    12月、後醍醐天皇、吉野に南朝を開く(南北朝の分裂)。

延元三年(1338)・ 6月、北畠顕家、和泉国石津浜で戦死
     閏7月、藤島の戦い。新田義貞戦死
      8月、足利尊氏、征夷大将軍に就任

延元四年(1339)・ 8月、後醍醐天皇、薨去
     南朝は後村上天皇に

延元五年(1340) 楠木正行は左衛門少尉、検非違使に任官し、河内の国司になる。
     楠木正行、住吉、堺に高師泰を攻める。堺は南朝の重要拠点でした。

正平二年・貞和三年(1347) 8月10日、楠木正行挙兵。隅田(和歌山県)・河内・摂津で連勝
     8月24日には河内池尻
     9月9日には八尾城を攻め、9月17日の藤井寺や八尾教興寺での合戦では足利方の細川顕氏を破り、
     11月23〜26日には摂津住吉で、和田賢秀と阿間了願の活躍で細川顕氏と山名時氏を破る。

 
「渡辺橋の美談とは、この戦いで退却する敵兵が、京へ逃げるための一本しかない橋(渡辺橋)に殺到したため、多数の敵兵が川に落ちてしまいました。その敵兵達を、楠木正行は助けただけでなく、暖を取り食料を与え、怪我の手当てや衣類などを施してから帰した。その時に施された何人かの敵兵士達は楠木正行に感じ入り、後に正行へ帰順し、正行最期の戦いに付き従った。


正平三年(1348) 1月5日、楠木正行・正時・正家が高師直に破れ戦死す。(四条縄手の戦い)



吉備の国HP |  戻る

作成者 藤本典夫