赤松円心の居城

兵庫県赤穂郡上郡町



上郡町に苔縄というところがある。

山陽本線上郡駅から智頭急行鉄道で苔縄駅下車

すぐ目の前に、赤松円心が創建したお寺(法雲寺)があり、そこに円心堂がある。
境内には、根廻14.3m推定樹齢700年から800年の「ビャクシン」がありこの寺創建時に赤松円心が
植えたと伝えられている。(説明板より)

本堂

大木周りを石の囲いがある。
 樹齢700年から800年の「ビャクシン」、この奥に円心堂がある。
円心堂全景

内部

彩色の円心像

赤松円心像
供養塔

円心供養塔




白旗城  法雲寺から北へ少し走ると、白旗城がある。

太平記で、足利尊氏が京から九州に落ち延びるとき、足利方であった赤松円心が、建武新政府軍(新田義貞軍)6万をここで防いだ。

その間に、足利尊氏は勢力を盛り返し、大勢力となって瀬戸内海を駆け上る。

室町幕府ができると、赤松円心は、足利将軍の信任厚く、備前・美作・播磨の守護となった。


白旗城案内看板 白旗城遠望
この山上に白旗城がある。


赤松円心の時代(1277年から1350年)
@鎌倉幕府に反抗して、京に攻め上る。赤松方3千、幕府方2万無謀に近い。
A1333年、鎌倉幕府の倒幕に参加した。
  第1軍 千種の中将、児島高徳の1万、第2軍 赤松円心ほか4千から5千
  第3軍 丹波篠村、老ノ坂を越えて、足利尊氏(当時は高氏)1万などが京都侵攻し、鎌倉幕府六波羅探題が滅亡。
  幕府軍は、楠正成が立て篭もる千早城に主力2万が釘付け状態。
  新田義貞、足利尊氏の後継ぎ千住丸が東国で旗揚げ、何とか鎌倉を攻め、鎌倉幕府滅亡。
B1333年、後醍醐天皇、建武の新政で、公家優先の論功行賞
  赤松円心則村の恩賞(播磨の守護でなく、佐用郡の地頭程度)が少ない。 怒って、播磨に帰る。
C1336年京都で、足利尊氏が、新田義貞に敗れ、九州に落ちるとき味方となる。
D1336年足利尊氏を討伐のため、西に攻めてきた新田義貞軍6万を50日間白旗城に釘付けにした。
E1336年その間に足利尊氏が勢力を盛り返し、湊川の合戦へと続く。
F赤松円心は、足利将軍の信任厚く、備前・美作・播磨の守護となった。

備前守護 赤松氏に対して、守護代は東備前 浦上氏、西備前 松田氏
その後、浦上氏の武将 宇喜多氏によって、備前一国平定された。




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作成者 藤本典夫