備前市   


せいでん(井田)跡   


池田光政公の時代、中国の井田に習って、せいでん(井田)を造った。




池田光政は、津田永忠に命じて、1670年実際に、井田を作り、
上井田は、1671年完成し年貢も、中国式であったが、
1675年には、通常の年貢に変更した。
1695年に閑谷村から9軒の入植があった。

その後、1688年に下井田が完成したが、
海抜0メートルのため、収穫に数年を要した。

1710年に下田が、閑谷学校田となった。
同時に、学校林も設定し、140ha、預け山72haが
学校運営に使われることとなった。



明治9年  井田碑完成
               冒頭に  中備高梁隠士山田球撰 鎌田博書


井田碑文の冒頭に  中備高梁隠士山田球撰 鎌田博書 とあり、山田方谷先生が
明治9年に撰文を行ったことがわかる。

方谷先生が亡くなる前年のことである。

場所は、赤穂線伊里駅のすぐ南側の広大な田園であるが、一部荒れている。
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作成者 藤本典夫