赤磐市澤田    日野富子の墓

     


向かって左が足利義政供養塔、右が日野富子の墓といわれる。



第8代将軍 足利義政が亡くなると、日野富子が抗争に破れ京都から都落ちする。

応仁の乱では、日野富子の東軍に属していた赤松政則が、その領国である備前の国を紹介した。
幕府と関係の深い、本阿弥家・松田氏の斡旋で、日野富子は、松田氏の領地に避難する。

その地が、赤磐市沢原である。


日野富子が、本当に、備前の地に来たのか不明の点も多い。

応仁の乱の最中、将軍が変わり、京にいられなくなった日野富子は、
小説などでは生まれ故郷の山城国 日野の地となっている。

しかし、地元の人(お寺の方)の話では、ここには避難していないとのことであった。
京都市伏見区日野 法界寺

それでは、どこに避難したのか、信頼できる本阿弥家・松田氏を頼り、安全な場所である備前に来ることも考えられる。
国宝級の備前長船の刀剣などを京都に輸送するルートは完成しており、年に何回かは、十分に警備された行き来もあった。

そして、最後は、京都で明応5年(1496年)に死去した説が有力。享年57。



その他 応仁の乱の関連

応仁の乱 1468年以後の関係表

将軍家
幕府有力者
守護大名
東軍
足利義政
日野富子
足利義尚
細川勝元
(細川一門)
畠山政長
斯波義敏
赤松政則
京極持清
武田信賢
富樫政親
西軍
足利義視
山名宗全
(山名一門)
畠山義就
斯波義廉
大内政弘
一色義直
土岐成頼
六角高頼







説明看板に見える赤松政則がこの件(富子の避難)に関与したかどうか。

<赤松政則略歴>
康正元年(1455年)赤松満祐(嘉吉の乱で滅亡)の弟・赤松義雅の子・赤松時勝の子として生まれる。

・第9代将軍・足利義尚、第10代将軍足利義稙にも仕え、軍奉行として活躍し、足利一門以外の武家の三位叙位は、政則が初である。

・能や猿楽を奨励するなど一流の文化人として名を馳せる。
・大名にしては珍しく刀工としても一流で、名工・長船宗光に師事したと言われ、後世に幾つかの名刀を残している。

このことから、
足利幕府の中枢にいた赤松政則が富子の避難に関与した可能性は高い。また備前長船刀剣の関係で、本阿弥氏、松田氏との関連も興味深い。


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作成者 藤本典夫